昭和52年04月13日 朝の御理解
御理解 第45節
「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出る釘は打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」
ここでは油断をすると慢心が出るとあります。では反対に頂いたら良いですね。慢心が出ると油断が出るのです。人に先生と言われるようになると、矢張り誰しも慢心が出て参ります。また人の真似の出来んようなおかげを受けて参りますと、もう自分の信心が出来たからおかげを受けた様に錯覚を致します。で私は何時も思うのですけれども、一つまぁ慢心が出るくらいなおかげを頂いてみたいなぁと言うのです。人からでも先生と言われるくらいに、あのお話も上手に出来る。また体験も沢山持っておる。
だから本当に又はおかげの上で言うたら、それこそ人の真似の出来んようなおかげも受けたい。ですから本当に本当に慢心が出るほどしのおかげを受けたい。けれども油断をするな。慢心が出るほどしのおかげを。所が慢心と言うなら安心と言うか、まぁ紙一重とも言われる。おかげを頂いたからやれやれ安心。そこから油断が出る。だから慢心安心油断と言う事が言えるわけです。本当に今慢心にある人。安心でもないものを安心と思うておる人。自分が今油断をしておる事に気が付かない人。
私は今日御神前で御祈念中に頂いたことは、今までおかげともご無礼とも気付かなかった事の中に、ご無礼をご無礼と感じさせて貰い。おかげをおかげと愈々感じさせて貰う、この二つのバランスがとれていく信心という意味の事を頂いたです。今までおかげと感じ得なかった所におかげを感じる。今までご無礼とも何とも思っていなかった事の中に、ご無礼を感ずる。そのご無礼を感じるおかげを感じる。この二つがしかもバランスがとれた頂き方で頂ける時にです。
いよいよ輝かしいおかげになっていくでしょう。愈々謙虚な愈々、しみじみとした深い信心に、触れて行く事が出来るでしょう。私は今日はそこを頂いて、またここ四十五節を昨日、一昨日でしたかね、ここを四十五節を頂いたのは。あら今日またここ四十五節かなと思ったんですけれども。ここを読ませて頂いておるところにです。最後のところに油断をすな、慢心が出るとおかげを取り外す。ここの所だけをこらあの頂いても素晴らしい事だなと、こう思いました。
今日私が御神前で頂いた事と、一番最後の油断をするな、慢心が出るとおかげを取り外すと。何故油断が出るか、何故慢心するかと。さっき申しますように、おかげは一つ本気で、本当に慢心が出るくらいなおかげを頂きたいですね。甘木の平田さん辺りのお話を頂いておると、もう本当にもうぶりぶりした慢心を持っておられたようですね。ほらもう大した慢心家でしたですね。所がこの人は油断をしなさらん。
はぁ素晴らしいです。ほらもう先生でも何でも、こうやって見下げたような態度で、お話をしておられましたですよね。私はある共励会に参りました時に、もうそれこそあの熱のある話をしておられました。そしたら御結界に座っておられる先生が、一生懸命居眠りをされるんです御結界で。そして自分は信者一杯、お広前におる信者に話をなさりよるとです。そしたら御結界のほうを睨みつけてからですね。
先生が御結界で居眠りどんするごたっとこじゃ、おかげ頂かんですばいち言うてから、はっははもう目を覚ますようになさったですよ。あれなんかもうそれこそもう本当に、慢心をしておらなければ言えるこっじゃないですよね。けれどもやむにやまれんその、本当に先生がしかも一杯信者が、その言うならば有難いというか体験に伴うた、まぁ平田さんの話を頂いておる所へ、肝心要の先生が御結界で一生懸命居眠りしよりなさる。だから先生が御結界で、居眠りどんするところじゃ人は助からん。
もう先生に聞こえるごと、睨みつけてから言いなさる。もうそう言う様な場面には、何時も会いましたですね。所がどっこいこの人は油断をしなさらん。親先生と言うて甘木の親先生の話をしなさると、何時も涙ぐみよりなさったですねぇ。もう私のおかげはもう、本当に親先生あってと言うのです何時もが。そこに言うならば、ある意味でバランスがとれておられたと思うのです。それこそまぁ決して慢心が、褒めたものではないですけれども、慢心の出るくらいな、一つおかげを頂きたい。
私を見なさいと。まぁ金光様の信心すりゃとにかく、私を見てくださいと。経済の上にも人間関係の上にも、ね。健康の上にも、このように家族中でおかげを頂いておりますよと。それが慢心ではなしに、私を見て下さいと言う様な信心が出来ると言う事は、素晴らしいですけれども。それがちょっと言葉が激しくなったりすると、あんたドン何年信心しよるのと、私達はこんなにおかげ頂いておると、その内容がちょっと慢心が出ると、やっぱり聞き難かったり致します。
けれどもねその本当に、経済の上でも人間関係の上にでも、ね。家庭円満なら家庭円満の上にでも、全ての上に足ろうたおかげを頂いてです。それこそ慢心が出るくらいなおかげを一つ普段頂いてみたい。一遍どん取り外したっちゃええけんで、本当そういうおかげを頂いてみたい。そんな思いがします。けれども取り外しちゃ勿体ないですから、それを皆さんが、おかげを受けた暁に落とさんで済むおかげを頂くためにです。油断をしてはなりません。
ところがもう油断がでますねぇ。矢張り人間ですから。敵と慢心のない者はないと言われるくらいですから。私は本当に金光様のご信心が、本当に生身を持った人間がする宗教だと何時も申しますが本当にそうです。おかげを受ける。例えば一匹の鶏がこう自分の足と、木にくくられて繋がれておる、そすと鶏はもう一生懸命その、綱を引っ張ってまちっとあの広かとこさん行こうと、こうやってしとるような情景をよく見ますね、田舎なんかに行きますと。繋いである。
まぁみかんの木ならみかんの木の下に、こう繋いである。そすと鶏はその一生懸命、そこを逃れようと思って、自分の足の痛かろうと思うぐらいに引っ張りよるけれども、綱が中々切れない。そういう人達が沢山ありはせんでしょうか。今自分がつながれておる、窮屈な思いをしておる。もう本当に自由の世界に出たい。おかげの世界に出たい。いや向こうの方には、本当におかげがあるように思うのです。
そしてそこにはどうにも出来ない、言うなら自分の足が、手が痛いばかりである。信心とはそういう言うならば、難儀窮屈の場合に本気で信心をする。いやそういう時でなからんと、本当な信心は出来ないよと説くのです。自分が難儀を感じ困った。どうか助かりたい。そういう助かりたいの一念が、神様へ向こうてくる。ご信心でもして見ろうかと言う事になるのです。そこで金光教では、何をそこで説くかと言うとです。
その今窮屈だと思っておる、苦しいと思っておる中に、喜びの餌がありますよと言う事を教えるのです。六尺なら六尺の綱に繋がれておるならば、その六尺真四角だけはあなたの世界なんです。人間が鶏を繋ぐ時に餌も何も無い所に繋ぐでしょうか。餌のある所へしか繋ぎませんよ。神様が可愛い氏子をです、それこそ何にも無い所に、そういう窮屈な苦しい修行を求めなさる筈はありません。その言うなら一間真四角の中に、十分お前が立ち行くだけの喜びの餌はあるんだよ。表に露出はしてない。
けどもこうこやってあせくってみれと。鶏はこうこやってあせくって、餌を探すでしょう。窮屈の中に一生懸命、御神意を悟れご深慮を分かれ。そこにはここにこういう有難い喜びがあった。そこから喜びの卵が生まれてくる。向こうの方におかげがあろう、幸せがあろうというのではない。信心とはだから今まで、おかげどころか困った難儀な問題と思っておった、その難儀な問題の中にも喜びの餌が、ちゃんと用意してある準備してあるというのです。
その窮屈の中に愈々、ご深慮の深さを悟る事が出来るというのです。信心もせんとに具合ようやって行きよるとがおる。信心しよっても言うなら、困った事ばっかりという人がある。そこでその羨ましいと言うのがおる。言うならば人のおかげの様子だけを見て、羨ましいとこう思う。本当の信心をさせて頂くなら、羨ましいどころかそういう油断に満ちた、慢心に満ちた生き方が、必ずそういう調子の良い時には、あるもんですからそれを見て、本当に一本橋を渡りよりなさるごたる気がする。
その人の事を祈らずにはおられないような心が起こってくる。そうです。信心がなくて、今羽振りが良いという人達の場合なんかは、もう慢心と油断で一杯なんです。本当の事が分かったら、もう本当にひやひやするごたるです。ね。今にすべらにゃ良いが、今に落ちこまにゃ良かがと思うような感じ、それが信心が分からんと、はぁ信心のなかったっちゃあげん金も儲けござる、健康でもあると言うて羨ましい。羨ましいような心が起こったんでは、信心が出来とるとは言えません。
今自分の窮屈な中に困ったとか、難儀を感ずるその中に、だから信心とは今まで気が付かなかった所に、御礼を言わなければおられない、おかげの世界を見出す事だと言うのです。同時にそういう今まで気が付かなかった、おかげの世界を知らなかった。そこにはです。成程自分がおかげは頂かない筈だと。成程自分が恵まれない筈だという。もう本当に、それこそひれ伏して、神様にお詫びをしなければおられない。今までは気も付かなかった、当たり前のように思うておった事の中にね。
お詫びに徹しさせてもらうというかね。お詫びをせなければおられない、いわばお詫びの世界が開けてくる。そのお詫びの世界と、おかげの世界とが、バランスが取れて行くと言う所に、金光教の信心があるんです。成程生身を持った凡夫がする信心だと言う事です。そこにはねそれこそ、昨日の御理解で言うなら、瑞々しいまでの輝かしいおかげの世界。もう本当に瑞々しいまでの、言うならばお詫びの姿勢。いわゆる謙虚な実意丁寧な姿勢がそこに生まれてくる。
本当に相すみませんとお詫びしとって、頭をぽんとこう上げる人はありませんですよ。お詫びをしておる、本当の姿勢というものは、それこそ平身低頭地に頭が着くような姿勢。だからおかげの世界が、いよいよ今まで気が付かなかった中に、おかげの世界を愈々広めて行くと同時に、お詫びの世界が愈々深められていく。そこに言うならバランスのとれた人間の、言うならば見ておって聞いておって、何とも言えん素晴らしい信心の世界があると思うです。
幾らおかげを頂いても、ここにはもう慢心の出ようがない。油断の出ようがない。本当に信心の理想的な信心というたらそういう信心。始めに申しましたように、私共も一つおかげを頂いてみたい。慢心が出るくらいないっちょおかげを頂いてみたい。俺を見れという様なおかげを頂いてみたい。そこには言うならば、平田さんの例を取りましたが、油断のない生き方が、親先生と言うただけで胸が一杯になるような、瑞々しい親先生のおかげでと言う様なものがです、出来てこなければなりません。
それをもっと完璧にするというのが、今日皆さんに聞いて頂いた、油断も出なければ慢心も出ない生き方。それは今までおかげをおかげと気付かなかった中に、おかげを悟り今まで、お粗末ともご無礼とも思い得なかった事の中に、お粗末ご無礼を感じさせて貰えれる様な信心。そういう信心がです。世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるという。愈々目がつぶれるのではない。今まで言うならば信心して、肉眼をおいて心眼を開けと仰る。心の目を開かせて貰う所からです。
おかげをおかげと分らせて貰い、心の目を開かせて頂く所から、ご無礼をご無礼と見る目が出来てくるのです。そこに三宝様踏まんで済む、いわゆる合楽理念に基づいた生き方が、そういう信心を基本にしての生き方というものが身に付いてくる。今日は頂いた例えばほんなら、慢心が出るほどしのおかげをいっちょ頂いてみたい。だから皆さんも是非それを、頂かなきゃならんがです。その頂いたおかげを、また取り落とす様な事のない事のためにです。慢心と安心は紙一重。
またそれと油断がまた紙一重。そう言う所をふんまえて信心を進めて行き、愈々おかげと思わなかった所におかげを感ずる。今までお粗末ご無礼と感じ得なかった事の中に、お粗末ご無礼を感じさせて貰えれる信心。そこに御礼と心からなるお詫びとが相まってくるわけです。そういう信心にたって願いと言う事になって来る訳です。しかしそういう信心が身に付いてきたら、愈々有難いですね。今まで本当に、感知しきらなかった所に、おかげが。
昨日、一昨日若先生と末永先生が、芦屋教会に参りました。あちらの親先生はもう八十四歳になられるそうです。で丁度行っておる間に一時間ばっかり、時間があるのに御結界からわざわざ先生が降りて見えて、二人の若い先生方を前にして、一生懸命ご自分のその何十年間の信心を話された。そしてもう本当にその、喘息で難儀をしておるという人が参ってくると、本当に空気の有難さを分かれと。空気のありがたさが分かったら、喘息は三日で治ると言われるそうです。
私どもは空気の有難さを知ってます。知ってますけども喘息が、三日で治るほどしの有難さと言うものを知らないです。痔の悪い人が来るとお便所を拝めと。そしてもう限りない物のお徳を説かれるそうです。もう何ひとつでも神様のお恵みのこもってない物はない。その御物に対する所の合掌。御物に対する所の頂き方を説かれるそうです。私共も矢張り御物と思いますけれども、いわば日吉先生が感じておられるその重さが違う。有難いと思うておられる重さが違う。
言うならば今まで感じ得なかった所に、愈々重さ有難さが感じられるようになられた所に、日吉先生のご信心があるなぁという風に思うです。限りがないのです。ここでは一切の事に、御の字を付けてと。今まではご無礼こんな事はご無礼と思いよった事に対してでも、御の字を付けて頂けばおかげだと。確かにそうなんです。今言うその御の字の内容が分かっておられる所がです。
自分の都合の良かところだけに御の字を付けて、困った難儀な問題やらには、御事柄としては受けきらずに、そんなもんな要らんと言うて自分の都合の悪い、神様からお叱りでもうけはせんだろうかというごたる事だけに、御の字を付けて行く様な生き方をする人が、この頃合楽で増えて来たのに私は驚いています。もうこんな横着な事があろうかと、私は思うです。
今まではご無礼と思いよった事にでも、はぁ親先生がご無礼と思わずに、それを御の字を付けて頂けと言われたからと言って、そう言う事に対してだけは、御の字を付けておる訳です。そして困った問題やら、難儀な問題やら、言うならここで言うならば、三宝様とも思われるような素晴らしい事に対してはそっけない。いやそれは御の字を付けるのじゃない、向こうのほうへ押しやりよる。
全ての事柄にほんなら三宝様踏むなと仰るが、その三宝様を踏まんで済むようなおかげを頂いて、一切の上に御の字を付けると言う事になってくる時にです。いわゆるバランスのとれた、成程これはお粗末ではないご無礼ではない、むしろ御礼を申し上げなばならない事だと言う事になってくるのです。だから御の字さえ付けりゃ良かがと言うて、悪い事です、実際は悪い事じゃないけれども、そういう例えば言うなら、頂き違いをしてはならないと言う事です。
全ての事に御の字が付けられると言うのでなからにゃいけません。自分の都合の悪か事だけに、都合の悪か事やらにはいい加減にして、都合の良い事だけに御の字をつけるという生き方では、そこにバランスが崩れてまいります。昨日美登里会で、美登里会の方達のお話を聞かせてもらった。もう本当に末永先生が司会をして、最後に申しておりましたが、美登里会の方達のお話を、一人ひとり頂いておると、もうその日一日の事が、立派なお話になっておると言う事です。
そこに神様を身近に、皆さんが頂いておられると言う事です。これにはもう本当に驚きますと、まぁいうふうに言ってました。確かにそうです。また後半をここの修行生の方達の研修をしました。本当にあの今度学院に参ります修行生の方達が、二三日前から黒衣が出来てきて、みんな黒衣を着けて修行させて貰いよります。本当にもう黒衣をつけた途端に、素晴らしゅうなるんですね。
その例えば御理解の纏めなんかでも不思議です。ここに本気で修行に来た所から変わる。今度は黒衣を着けるとまた変わる。今度学院を出てくるとまた変わる。いわば先生の資格を頂いて帰ってくるとまた変わるという様にです。もう色んなチャンスを捉えて、自分の信心が飛躍して行かなければなりませんが、はぁだから皆が素晴らしいと言う訳です。そすと、良い気になる訳です。
そして今度明日の御理解もまた水も漏らさんような纏め方をさせて貰う様に、段々なってくる。そすと皆がはぁ皆が褒めるんです。その頃から慢心が出て来るです。もう只親先生の言うておられる事を纏めるだけで、もう如何にも親先生の信心が、もう自分のものに成った様な気がするんですね。纏められたら。纏めてそれが行じられて、自分のものになった時が、始めて血に肉になった時なんです。
だから本当言うたら、もう褒められる時には、反対に身が縮む様な思いでもする様な気持で頂くと、おかげ頂きますですね。信心にはもう本当に、大体信心を頂いておりゃ愈々謙虚な、実意丁寧な姿勢というものが、出来てこなければならんのが信心ですけれども。さぁそこが生身を持っておる人間ですから、段々教えが分かるようになり、人にもお話しが出来るようにもなる。
そして実際おかげも頂いて行く様にもなるとです。いわゆる先生と言われる様になると、頭を下げる事を忘れるから、今日はそう言う所でです。私共がおかげの世界と、それからお詫びをしなければならない世界。今まで気も付かなかった所に、おかげがあり今までお粗末とも、ご無礼とも思わなかったことの中に、お粗末ご無礼のある事を分からせて貰うて、そこのバランスをとりながら、信心を進めていかなければならないと言う事を、今日は聞いて頂きましたね。
どうぞ。